映画『64(後編)』を観る2016年6月20日

映画を観たあと、いろんな感情が渦巻きます。
任侠映画を観たあと、自然と肩で風を切ってしまうという話などありますな。
自分ではそこまではナイと思うのですが、実は、無意識にそういうことがあるかも。

開映時間に合わせて映画館に行き、お金を払い、眠気を堪えて何としても観る。
映画鑑賞とは能動的な行動だと思います。
映画を観ると、一仕事終えたかのような達成感・充実感に包まれます。

『64(後編)』をレイトショーで観たあとも、確かに、その感覚はありました。
が、いつもと違い、後味の悪さを引きずり、なかなか眠ることができなかったのです。

『64(後編)』は、原作とは違う結末となっていました。
後味の悪さは、それが原因です。

原作と違う終わり方というのは、もちろん、アリです。
そのこと自体は構わないのです。

原作では、事件が解決しないまま終わります。
にもかかわらず、「希望」が感じられました。
それが映画には感じられなかった。

映画では、事件が解決します。
が、その過程が納得いかなかった。
だから、解決したのに気持ち悪さが残った。
皮肉ですな。

映画化するにあたり、やはり事件の解決というのが重要だったのかも知れません。
が、私個人といたしましては、グレーなままでよかったんじゃないかと思うのです。
いや、グレーだからこそ、想像の幅が広がる。
余韻がある。
それでいいのでは?