みちのく一人旅~その7~2011年12月6日

11月12日(土) 天気:霧→曇り→晴れ→雨 歩数:24196

花巻の朝も霧。
幸い、前夜の雨は上がりました。
花巻温泉郷の台温泉・中嶋旅館が霧の中に幻想的に佇んでいます。

この日は遂に盛岡に入ります。
奥州藤原氏の前身である安倍氏が滅ぼされ、
藤原清衡(きよひら)の父・藤原経清(つねきよ)が刑死させられた
前九年合戦最後の戦場・厨川柵(くりやがわのさく)がある地です。

花巻9:33発、快速はまゆり2号に乗車。
この列車は釜石を7:40に出発、2時間弱かけて花巻に到着したものです。
盛岡着は10:02。
花巻を出発するときはまだ曇っていましたが、
盛岡に着く頃にはすっかり晴れ上がりました。

盛岡駅から厨川柵跡まで約2.5キロ、
北上川沿いの県道を歩きます。
遺跡まであと500メートルの地点に、館坂橋(たてざかばし)というのがあります。
ここから上り坂になっていきます。
厨川柵跡がある場所の地名は、安倍館町(あべたてちょう)。
(近くには前九年という町名もあります)
いわゆる河岸段丘だと思いますが、
北上川を見下ろす丘の上に、遺跡はありました。
(説明板には安倍館遺跡(あべたていせき)と書いてありました)
ここが城柵だったと感じさせるものは濠の跡だけですが、
天然の要害だったことは容易に想像できます。

遺跡内には「安倍館稲荷神社」、
その隣には「貞任(さだとう)宗任(むねとう)神社」がありました。

貞任宗任神社
安倍貞任は安倍頼時亡き後、安倍氏の棟梁となり、
ここ、厨川柵の城主でした。
安倍宗任は、2日前に訪れた鳥海柵の城主で、貞任の弟。
貞任は戦死、宗任は捕われて伊予国に流されました。
紅葉が血のように赤く染まっていました。

遺跡を訪ね歩くと、いつも私一人っきりでしたが、
厨川柵跡では、初めて二人になりました。
50歳代半ばといった感じの男性が先に訪れていたのです。
何か話をしようと思ったのですが、何となく気恥ずかしくて、
「こんにちは」と言ったきりでした…

館坂橋を渡った向こう側を、館向町(たてむかいちょう)といいます。
ここから厨川柵跡を眺めてみます。
北上川を渡り、断崖をよじ登って城柵に取りつくのは、
かなりの困難を極めたと思います。

館向町から2キロ程行くと、高松神社があります。
安倍氏と戦った源義家(よしいえ)が陣を張ったという小高い丘です。
確かに、厨川柵跡がよく見渡せました。

近くの高松ノ池から西のほうを仰ぎ見ると、
岩手山の山容が青空に、そして池に美しく映えていました。

高松ノ池と岩手山

ここまでで結構歩いています。
おそらく10キロを超えているかと。
特に厨川柵近辺では、何か歴史の痕跡はないかとウロウロしまくりました。

厨川柵跡の紅葉
初めての土地を地図を見ながら行ったり来たりするものですから、
かなり足にきています。

高松ノ池から国道4号に出たところで、
流しのタクシーを捕まえようと思ったのですが、
国道なんてのはいろんな車種がビュンビュン飛ばしているものの、
意外とタクシーは走っていないもんですね。
次の目的地、三ツ石神社まで約3キロ、やっぱり歩くことにしました。

 

三ツ石神社には巨石が3つあります。

三ツ石神社
大昔、この地で悪さをしていた鬼を神様が捕まえ、
三ツ石に縛り付けたそうです。
二度と悪事を働かないと約束した証拠に、
鬼はこの巨石に手形を押したそうです。
「岩手」という地名の由来だと聞きました。

「鬼の手形」は見える人には見えるらしいですが、
私には分かりませんでした。

~さすがに疲れました。
歩数計によりますと、約20キロ歩いたようです。
三ツ石神社を出たところで流しのタクシーが見つかったので、
盛岡駅まで乗せてもらいました。
約4キロといったところでしょうか。

駅のコインロッカーでリュックサックをピックアップし、
この日の宿、繋温泉(つなぎおんせん)・四季亭に向かいます。

この温泉を見つけたのは、源義家と伝わります。
義家は、愛馬の傷をこの湯で洗ってやると快癒したので、
穴のあいた石に愛馬を繋いで自身も湯に浸かったそうです。

「繋石(つなぎいし)」は、四季亭の2軒横にありました。

繋石

 

※※※

疲れた足を癒すべく、私も繋温泉に浸かっていましたら、
またもや雨が降ってきました。
昨夜も花巻で雨が降りましたが、
朝には上がっていました。
今夜の雨はどうなるものやら…