旅の準備2011年11月16日

7月3日、『第24回せせらぎコンサート』終了。
音楽面では9月に2つの演奏会を控え、
仕事上はアナログ放送終了と、その後片付けで大忙しの中、
東北地方探訪の旅の準備に取り掛かりました。

まずは高橋克彦さん著『炎立つ(ほむらたつ)』原作を読み直し、
探訪したいスポットをピックアップ。
これだけで9月半ばまでかかりました。

※※※

1051年、前九年合戦勃発(~1062年)。
日本史的に言えば、
陸奥(ざっくりいって岩手県)の豪族・安倍頼時(よりとき)の叛乱となるだろうが、
安倍氏からすれば、源頼義(よりよし)の奥州侵略戦争だった。

前九年合戦の最中(停戦中)、
源頼義の旗下にあった藤原経清(つねきよ)と、
安倍頼時の娘・結有(ゆう。小説上つけられた名前と思われる)が結婚。
二人の間に生まれたのが、のちの奥州藤原氏初代・藤原清衡(きよひら)である。

藤原経清は源頼義の真意を憎み、安倍軍に加わる。
これは源氏からすれば裏切り行為だった。

1062年、源軍は出羽(ざっくりいって秋田県)の清原氏の援軍により、
厨川(くりやがわ)柵の戦い(現・盛岡市)で安倍氏を滅ぼす。
捕えられた藤原経清は、敢えて刃こぼれさせた刀で斬首された。

源頼義は、思惑に反し朝廷に干されてしまう。
武士の台頭が恐れられたからだ。
陸奥と出羽は清原氏の支配となった。

結有は清原武貞と再婚させられる。
連れ子の藤原清衡は、敵の中で成長していくこととなる。

1083年、後三年合戦勃発(~1087年)。
ざっくりいうと、清原氏の内紛である。

この戦いの最中、清衡は妻子を殺される。
が、なんと源頼義の息子・義家(よしいえ)の協力を得、
清衡は最後まで生き残る。

源義家にも陸奥を我が物に、という野望があったはずだが、
父・頼義と同じく、朝廷から遠ざけられてしまう。
1087年、安倍氏と清原氏の遺産を受け継いだ藤原清衡が最後の勝者となった。
1189年の源頼朝の奥州侵略まで、
約100年に及ぶ平泉を中心とした楽土が形成される。

奥州藤原氏初代・藤原清衡が再興したのが中尊寺。
その落慶供養で、清衡は、
戦の犠牲となった人々を敵も味方もなく弔い、
さらには人間だけでなく、
戦の中で殺された鳥獣までも弔ったのである。

二代・藤原基衡(もとひら)の代表的建造物は毛越寺(もうつうじ)。
その妻は安倍頼時の孫で、観自在王院を開いた。

三代・藤原秀衡(ひでひら)は無量光院を立てた。
宇治の平等院鳳凰堂を模したといわれるが、
それよりも一回り大きかったらしい。

四代・泰衡(やすひら)のとき、源頼朝の侵略を受ける。
源氏にとり、奥州は宿怨の地なのだ。
阿津賀志山(あつかしやま。現・福島県国見町)で決戦するも敗退。
奥州藤原氏は滅亡する。

(以上、ざっくり、でございました)

※※※

平泉へ行くのは何の心配もありません。
世界遺産となった大観光地ですから、
迷わずにたどり着けるはずです。

問題は、今や史跡となっている場所。
一体どこなのか、特定する必要があります。
そのために関連史書7冊を約1か月で読破。
地図も4種類購入、
インターネットでも関連史料を調べ、
白地図に探訪スポットを書き込んでいきました。

時刻表を駆使し具体的な行動を固めていった結果、
『みちのく一人旅』の計画が出来上がりました。
仕事の調整、宿の予約もでき、
11月8日から11月14日までの6泊7日です。
せせらぎの練習も1回お休みさせていただきました。

乗車券は京都⇔十和田南(花輪線)の往復。
ポイント毎に途中下車を繰り返します。

では、旅立ちます。