映画『ロボコップ』を観る2014年3月23日

1987年のアメリカ映画(日本公開は1988年)『ロボコップ』。
最初に観たのは確かテレビ朝日の『日曜洋画劇場』でだったと記憶しています。
アメリカでは「R指定」だったそうですが、
確かに激しいバイオレンスでした。
が、この映画の本質は、
人間と機械を合体させて作り上げたサイボーグは「人間」なのか「機械」なのか、
そして「人間性」とは何なのかを問う、
実に深~い作品だったと思うのです。

このオリジナルの『ロボコップ』では、最初、
アレックス・マーフィー(殉職後、ロボコップとして蘇らされた警察官)には人間としての記憶がありません。
が、自らが殺された事件を捜査していく中で、
少しずつ人間であったときの記憶を取り戻していきます。
それでも彼はサイボーグなのです。
『ロボコップ2』では妻子の周りをストーカーの如くつけ回して恐れられ、
犯罪組織にはバラバラにされて、
本当に人間なのか機械なのかを考えさせられました。

(『ロボコップ3』では遂に空を飛び、「こりゃやり過ぎだな」とさすがに幻滅したものです…)

今回リブートされた『ロボコップ』では、
瀕死の重症を負ったアレックス・マーフィーを救うため、
奥さんが「サイボーグ化手術」に同意するのです。
なので、奥さんもお子さんもロボコップとなったアレックスを割りとあっさり受け入れるし、
アレックス自身も最初から人間としての記憶を保持しています。
監督自身が狙ってこういう風にしたらしいのですが、
私にはどうもしっくり来ませんでしたな。

アレックス自身は、この後、逆に人としての感情を奪われたり、
それを自らの力で取り戻したりと、
やはり人間性とはなんぞやと考えさせるつくりにはなっていたので、
『ロボコップ』の底力恐るべしと思いました。

オリジナルの『ロボコップ』は比較的低予算で作られたからか、
あるいはその時代の技術の限界か、
どうしてもチープな映像に見えてしまうところが多々ありました。
(それが「味」でもありましたが…)
リブート版『ロボコップ』は、
そういう点から見るとすごく贅沢な映像だなと感じました。

※※※

さて、前回のひとりごとの訂正をひとつ。
せせらぎの混声五重奏チームを「じゅうちん」と紹介しましたが、
正しくは
「じゅうちん
   ⇔  」
と申します。
(2行に及ぶのが正しい表記だそうです)
⇔があるかないかで大違い。
「じゅうちん」を引っくり返して「ちんじゅう」と読まなければなりません。
大変失礼いたしました。

追伸:さらに私の感想
「じゅうちん」のままでええんとちゃいます?