震災から3年2014年3月11日

朝から普段と変わらない半日を過ごしつつも、
なんとか14時46分までには帰宅し、
追悼式を観るべくテレビをつけ、
ガイドに従って1分間の黙祷。

ここ数日、
3年目の3月11日を迎えるにあたり、
何を書こうかと思案していましたが、
やはり、
自分の身の回りのことを書くのが正直だと思いました。

あの日は、まだ存命していた母がテレビを観ていて、
「東北地方で大きな地震が起きたらしい」
と教えてくれたのが私にとっての第一報でした。

それから夕方まで、私はテレビにかじりつきました。
津波の恐ろしさに心が飲み込まれました。
金曜日なので、
練習場のニューセンチュリースタジオに向かわねばなりませんが、
スタジオ借用開始時刻の18時ちょっと前まで見続けました。

翌日の3月12日(土)にコンサートを催す予定にしていた私たちは、
戸惑いながらも練習を続けました。

練習後、
帰宅した私は再びテレビにかじりつきました。
刻々と入ってくる悲惨な情報に心が痛み、
果たしてコンサートすべきなのかどうか、
迷い続けました。

すると、
トランペットのN川さんから、
楽団の一斉連絡用メーリングリストを使って以下のようなメールが流れてきました。
まず「深夜に申し訳ありません」と前置きしつつ、
「炎に包まれる気仙沼(と書いておられたと記憶する)の様子を見ながら、
 果たして演奏会をやっている場合でしょうか?
 やるにしても喪章を付けるなどすべきでは?」

これで私の腹は決まりました。

楽員の皆さんに相談しなかったのは大変申し訳なかったと今も思っていますが、
ほぼ私の独断で演奏会場に赴き、
演奏会をキャンセルしました。

あの日は、音楽している場合ではなかった。
いや、音楽を演奏しようにもできなかったに違いないと思います。

それから、
無力感にさいなまれる日々が続きました。
一体自分に何が出来るのか?
全く何も出来ないではないか。
情けなくてどうしようまありませんでした。

7月には定期演奏会(せせらぎコンサート)が控えていました。
そのプログラムに書く「指揮者のひとりごと」、
一体何を書けばいいのか悩みましたが、
ちっぽけな自分だけど、
自分に出来ることをやっていくしかない、
ということを書きました。

間違ってはいないと思いますが、
では、
自分に出来る「具体的な」ことは?

もちろん、
音楽活動を続けていくしかないのですが、
それが被災地の方々にどう繋がるのか?
全く関係ないじゃないか?

いやいや、
たとえ草の根の活動であっても、
まわりまわっていつかは繋がるのだ。
そう信じるしかないじゃないか。

でも、
本当にそうなのか?
繋がるのか?

いや、
きっと繋がる!

自問自答の日々を続けているのが正直な自分です。

それと、もう一つ。
遺族を利用し、騙し、
その心をさらに傷つけるようなニセ音楽家には、
決してなりたくありません。